第22話  「蛤御門の変」起きる。


長州藩の復権としては、「実力行使」しか道がなかった。

先の「八一八事件」で、朝廷・会津・薩摩の勢力によって京都から締め出され、
「池田屋事件」では、幕府の御用改めによって勤皇の志士が殺されている。
とりわけ、新撰組には深い恨みがある。

長州藩の「急進派」としては1千名の規模の兵を率いて、御所の北西に位置する「天龍寺」、
御所の南西に位置する「山崎」、御所の南に位置する「伏見」と三方から攻め込むつもりで
陣を張り、「長州の復権」をかけて朝廷と交渉を始めたのである。

20日間ほど交渉は続けられた。
けれど、物別れとなり、七月十八日の「最終勧告」を受けて、十八日の深夜から
十九日の未明にかけて、三ヶ所の兵を動かしたのだ。

久坂玄瑞・真木和泉率いる「山崎軍」は、十八日20時頃「山崎の陣」から
「御所の南側・堺町御門」をめざしたが途中、悪路のため半日ほど到着が遅れた。

十九日0時頃、「長州・伏見藩邸」の福原越後率いる「伏見軍」は、伏見街道を北上する。
藤森付近で大垣藩と戦闘開始となり、大垣藩の砲弾を浴び総崩れとなり退却した。

木島又兵衛・国司信濃率いる「天龍寺軍」は、午前2時頃、御所の西側をめざして出陣した。
仁和寺街道を東に進み堀川通り一条の「戻橋」で二手に別れる。
木島又兵衛隊は「蛤御門」へ、

国司信濃隊は「中立売御門」に向かった。


新撰組は九条川原の「銭取橋」に陣を張っていたが、会津の松平容保公から、急遽
「堺町御門」へ向かうように指示が出たので、移動した。

木島又兵衛隊は、「御所の蛤御門」を警護していた会津藩を蹴散らし、桑名藩も逃げ出し、
一橋慶喜隊も「乾御門」の方へ退却した。


しかし、薩摩藩が応援に駆けつけ、薩摩の小銃部隊により、国司信濃隊は追い散らされ、
木島又兵衛が狙撃されたために、長州軍の戦力が落ちた。

「山崎軍」が「堺町御門」に到着した頃には、木島又兵衛は戦死した後で、「堺町御門」を
警備している福井藩・薩摩藩の戦力に押されて、


「山崎軍」は「堺町御門」手前の「鷹司邸裏門」
から屋敷内に入り、銃撃戦を繰り広げるが、すぐに屋敷に火が放たれ福井藩の兵に包囲された。

久坂玄瑞はここで自刃したが、「山崎軍」は西に退却する。
筑後水天宮の神官・真木和泉は、山崎付近で長州軍の引き上げを見送ると、仲間16名を連れて、
「天王山」に登り、「宝積寺」で自刃して果てた。
真木和泉以下17名の遺体は「宝積寺」の三重塔の前に葬られたが、明治元年になり、
天王山中腹に『十七烈士慰霊碑』が建立され、久留米藩・宇都宮藩・肥後藩など諸国の
志士たちと一緒に眠っている。

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