第27話  二度にわたる長州征伐

元治元年(1864)の「蛤御門の変」で、御所に砲弾を撃ち込んだ事と、
京都の町を焼け野原にした事で、朝敵となり、幕府に「長州征伐の勅命」
がくだった。

8月7日に、「征長総督」に尾張の元藩主徳川慶勝を任命し、10月22日に
大坂城で西日本の約30数藩の藩主・藩士が集まり「征長軍議」が開かれた。
結果、11月18日を長州征伐と決めた。

11月下旬には、総督は「安芸藩広島」に、副将は「筑前藩小倉」に到着し、
幕府軍は総勢15万人の大軍を投入した。

一方、長州藩内部は「蛤御門の変」と外国戦艦との戦争の敗北から、
「佐幕派である俗論党」が藩政を握り、幕府に恭順の意を表した。

国司信濃・益田右衛門介・福原越後の三家老の首を差し出し、他に四参謀も
処刑して、戦わずして降伏した。

毛利藩主父子の謹慎と山口城の破却が行われた。

そして、12月27日徳川慶勝総督は「第一次征長軍撤兵」の指令を出した。


その後、長州藩内部に高杉晋作がクーデターを起こし、俗論党を撃破して
長州藩内を倒幕に統一して、長州藩は佐幕派が実権を握った。

慶応元年(1865)再び、朝廷は「長州征伐の勅許」を出した。
ここに、「第二次長州征伐」が始まるのであった。

この後、一年ほどくすぶり続け、慶応二年(1866)六月十七日に
「四境戦争」(長州藩に隣接する四方の藩境)で筑前藩小倉城に総督本部を
置いた幕府軍10万人の兵力に対し、長州軍は、4〜5千人の兵力で戦った。

くすぶっていた一年間の間に、薩摩藩と長州藩が「薩長同盟」を結んでいた。
当然、幕府軍には薩摩藩は兵を出しておらず、各諸藩も消極的態度だった。

長州軍の小倉城攻撃で小倉城は炎上、徳川14代将軍・家茂の死去も重なり、
幕府は長州から撤兵したのである。

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この「四境戦争」での幕府軍の敗退から幕府権威は失墜し、
薩摩・長州・倒幕派公卿が台頭して来たのである。

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