第七話 宿泊地から25分の島原・角屋(すみや)


私・新撰組局長は24歳の時、島原・角屋に行った。

京都の観光バスに「夜の観光コース」があり、二度ほど利用した。
南禅寺で「湯豆腐」を食べ、祇園で「都おどり」を見て、角屋で「太夫道中」を
見た記憶がある。

さて、「新撰組の物語」も舞台を京都に移す。

「浪士隊」として、上洛した一行は「新徳寺や八木邸や前川邸」に分宿した。
この壬生寺界隈は当時、畑と田んぼに囲まれていた。

徳川時代の初期に、島原に遊郭が出来た。
幕末には、田んぼの真ん中に歓楽街があったのだ。

近藤勇や土方歳三らは、宿泊地の八木邸から歩いて25分のこの歓楽街を
溜まり場にしていた。

とりわけ、『角屋』は、宴会や商談の接待などによく利用していた。

新撰組の隊士たちの仕業で、「角屋」の二階(青貝の間)の柱には三本の刀傷が残っている。

島原は遊郭街なので、遊女の逃亡に厳しく、街全体を囲いで塞いでおり、
大門と出口で、出入りをチェックしていた。

:現在でも、「角屋」を貸し切って宴会を開くことは出来るそうだ。
大門と、出口の柳、そして「角屋」は当時(江戸時代)の名残りをとどめている。

おりしも、近藤勇は、「島原の女(深雪太夫)を妾にしていた」と、史実がある。

ならば、私・新撰組局長にも「島原の太夫」と名乗る副長がいる。

今回の京都撮影から、「島原の太夫」と名乗る女性レポーターの活躍です。

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