第十一話 芹沢鴨と壬生寺の墓参り


大阪は、雨雲が切れ、青空がのぞいてきたとか・・・
「島原の太夫」とは、今さっきの話である。

『局長〜、今、壬生に着いたよぉー』
『今日は何処へ撮影に行くのですかぁー』と、受話器の向こうで騒いでいる。

外国製の真っ赤なスポーツカー「なにわ」ナンバーで名神高速を160キロで
飛ばせば、あっという間に京都に着く。

「島原の太夫」は鈴鹿サーキット仕込みの「A級ライセンス」を持っている凄腕。
ベンツやフェラリーZをスイスイと追い抜いていくと聞く。

さて、本題に入ろう。


前話(第九話)で八木邸を紹介したが、芹沢鴨は土方歳三や沖田総司らによって
八木邸で殺され、近くの「壬生寺」に葬られたと、史実は伝える。

まず、水戸浪士・芹沢鴨のプロフィールについて触れてみる。

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常陸国芹沢村の郷士・芹沢貞幹の三男として生まれた。
剣術は神道無念流の戸賀熊太郎に学び免許皆伝である。

芹沢の兄(二男)は医術の心得が深く、会津の殿様・松平容保に
おぼえが深かった。

江戸からやってきた「浪士隊」の中に近藤勇と共に入っていた。
「浪士隊」が朝廷の勅命で横浜の警護の為に江戸に戻ることになった時、
近藤勇、土方歳三らと共に京都に残った。

この時に、彼ら13人の身柄を「会津藩」が預かったのは、芹沢の次兄の
縁であったのだろうと推察されている。

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「会津藩御預」の13人が「禁門の政変」で功を挙げ、「新撰組」が
発足してから、「新撰組」に新人も入隊し始めた。

人数が多くなり、八木邸では手狭になったので、「八木邸」には
水戸浪士の一派(芹沢、平山、平間)が残り、
近藤、土方、沖田ら江戸の一派は「前川邸」に移り住んだ。

「新撰組」の知名度が高まるにつけ、芹沢鴨は暴虐の限りを尽くした。、
業を煮やした京都守護職は密かに近藤勇に「芹沢を何とかせい」と話している。

九月十八日、芹沢一派はいつものように「角屋」で宴会をした後、
女を連れて「八木邸」に戻り、寝所で泥酔し寝ていた芹沢は布団の上から
突き刺され死亡した。
供に、平山五郎、平間重助も粛清された。

近藤勇は現場にはいなかったが、襲撃したのは、土方歳三、沖田総司、
原田左之助、山南啓介である。

だが、「新撰組」としては、芹沢らは「攘夷派の襲撃」によって殺されたと、
盛大な葬儀を行って、「壬生寺」に葬ったのである。

「島原の太夫」から「壬生寺の写真」が届いた。・・・ ここをクリック