第26話 山南敬介(享年30歳)、謎の脱走


山南敬介が、なぜ死を選んだか謎である。 今なお、明解に答えを出した作家がいない。

山南敬介に限って言えば、「生まれも、今なお不明である」
一応、自己申告では、『仙台藩の脱藩者』と、言っているが、

脱藩者といえば、「藩」から逃げ出すと言うこと、一種の『亡命者』である。

亡命者の全てがしたように、追及手配を避ける為に山南敬介は変名であり、
彼自身の前歴は秘匿して他言せず、今なお、仙台藩の残された書類の中にも、
彼の脱藩の記録が全く見当たらないのである。

よって、山南敬介が江戸に来てからの紹介となる。

江戸に出て千葉周作の門人となり、北辰一刀流を極め、のちに天然理心流に転じ、
江戸試衛館で近藤勇に師事した。

新撰組発足当初は、副長と言うポストであったが、水戸一派の粛清後は、
総長の座に就いた。

新撰組の序列は、局長:近藤勇、総長:山南敬介、副長:土方歳三となる。

江戸試衛館時代より、沖田総司の兄貴分でもあり、皆に慕われていた。
近藤勇の良き相談役でもあった。

だが、元来感情の起伏の激しい性格であり、善くも悪しくもナイーブな為、
冷徹非情に徹する近藤、土方路線に異を唱えることもしばしば有った。

彼は、「新撰組を単なる人斬り集団にしてはいけない」と考え、
幾度も近藤勇に諭したようだ。

しかし、現実は、彼の思いを外れ、新撰組は人斬り集団として名を馳せていった。
・・・・ そんな彼の抗議の行動が、脱走であった。・・・・

追っ手が掛かるのを承知で、行き先をしたためて脱走したのである。

当然、土方歳三は許さなかった。 沖田総司に追っ手を命じたのである。

・・・・ 沖田総司は苦悶した。 ・・・・

「大好きな山南さんを切りたくない!」
追いつかれた時、戦えば沖田は山南を逃がしていたと思う。
が、それでは沖田の立場がまずくなる。

故に彼は戦わずして、沖田に捕らえられ、屯所の「前川邸」に戻った。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


「隊規違反の罪」で切腹した山南敬介、享年30歳。
切腹の際の介錯人は、一番自分を慕ってくれた、沖田総司であった。

山南敬介の墓は、光縁寺にある。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


山南敬介のお墓と、その隣りには、なぜか沖田総司の縁者(総司が世話になった
                             人の妻と子供を面倒を見たという説あり)のお墓


各写真をクリックすると高画質写真が見られます、 閉じる時も高画質写真をクリックしてください。

・・・おしまい・・・