第33話 新撰組こぼれ話−1[西本願寺屯所]


大きな事件の谷間に沈んでしまった小さな話です。

新撰組関係のホームページに必ず登場する「人物や場所」を、私・新撰組局長も
当然のごとく、撮影してありますが、なかなか、取り上げる機会が無かった。

1865年から1866年の間の小さな事件を追ってみた。

1.新撰組屯所を西本願寺に移す・・・1865/3/10

京都市内には、今でも、御所のほかに、大きな敷地を持つお寺が2つある。
一つが、東本願寺であり、もう一つが西本願寺である。

東本願寺が、幕府びいきのお寺であるのに対して西本願寺はもともと勤王方に
同情的であり、前年の「禁門の変」の際にも敗れた長州藩士をかくまい、
逃走を助けるなどの経緯があった。

その後も勤王方の隠れ家的西本願寺を、新撰組の監視下に置くという狙いも込め、
会津藩に屯所移転の申し出をおこなった。

慶応元年三月十日、新撰組は、それまでの「壬生の屯所」が隊士の増加で
手狭になったことを理由に、西本願寺の北集会所に屯所を移した。

北集会所と阿弥陀堂の建物の間に竹矢来で仕切り、大広間を小部屋に区画し、
湯殿から牢屋まで設置した。
西本願寺の行事の喚鐘が鳴ると、訓練にかこつけて同時に空砲を放ったりして、
嫌がらせをしたようだ。

この西本願寺の新撰組屯所では、百人あまりの隊士が寝起きし、剣術や鉄砲の
訓練を2年間行っている。

現在、西本願寺には、「この北集会所はない。」

明治6年に、姫路市内の「浄土真宗本願寺派の播磨における中心寺院である
『亀山本徳寺』の本堂」が火災にあった際に、西本願寺の直系のつながりから、
西本願寺の北集会所を移築したのである。

早速、京都撮影担当の島原の太夫は、真っ赤なポルシェを駆って、
大阪から、東へ西へ取材に出かけた。

姫路の「亀山本徳寺」、明日をも知れぬ我が身の鬱屈からか、若い隊士の振り回した
無数の刀傷が本堂の柱二本に、新撰組隊士のその歴史を物語っていた。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


京都の「西本願寺」のシンボルの太鼓楼ほか、国宝級の建物が多く、見応えがある。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


上段は、姫路の「亀山本徳寺」、下段は、京都の「西本願寺」です。
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・・・おしまい・・・