第十三話  寺田屋騒動(薩摩藩の内部抗争事件)


♪トトン トーン・トン♪・・・講談風です。

・・・・新撰組の誕生する3年前の話です。・・・・・

時は、万延元年(1860)徳川幕府を牛耳っていた「井伊大老」が
桜田門外で水戸藩士の集団に襲撃され、殺害されると、徳川幕府は一気に力を
落とした。
以前から巻起っていた幕政批判が強くなったので、幕府としては、朝廷と一緒に
国政を運営しようと、「公武合体運動」を薩摩藩と共に推し進めることにした。

当時、薩摩藩の京都駐在の責任者は「西郷隆盛」である。
そして、朝廷内部は、長州藩が掲げた「開国論(航海遠略策)」に勢力がついてきた。

長州藩の勢いを快く思っていない島津久光は、1千名の藩兵を率いて京へ上ることにした。
薩摩藩の島津久光が京都に出てくることを嗅ぎつけた一般の志士や浪人や他藩士や
薩摩の急進派藩士らが、勘違いして、大阪、京都にぞくぞくと集結してきた。

西郷隆盛は「今、薩摩藩が京都に入ることは思わぬ事態になるので、来ないでくれ」と、
島津久光の挙兵上京計画に反対を進言した。

この事が、島津久光の逆鱗に触れ、西郷隆盛は「国許(鹿児島)」に帰らされた。

急進派を抑えていた西郷隆盛がいなくなると、有馬新七(ありましんしち)を
中心とした薩摩藩の急進派藩士らは、島津久光の入京を機に、倒幕の先鋒として
兵を挙げることを計画し、京都伏見の『寺田屋』に集結した。

島津久光は「公武合体運動」で国政に乗り出してきたのに、一部の過激派に
よって自分の計画を邪魔されてなるものかと、大山格之助、や奈良原喜八郎ら
9名の剣豪を寺田屋に差し向けた。

♪トトン トーン・トン♪・・・講談風です。

この後、みなさま ご存知の「寺田屋騒動」・・1862年4月23日です。
薩摩藩急進派の約30名の内、6名が死亡、2名が重症。
薩摩藩の鎮撫使側は藤島五郎兵衛が巻き添えの死亡となったので
あります。  残りの薩摩藩士達は大山格之助に説得され、挙兵を諦めた。

壮絶な同志討ちを繰り広げた『寺田屋』・・・ ここをクリック

・・・坂本龍馬とお竜さんの「寺田屋事件」は、4年後の出来事です。・・・