第十五話  京都守護職屋敷跡(現在の京都府庁)

京都の治安は、「京都所司代」及び「京都町奉行」によって行われていたが、
尊皇攘夷運動の「穏健派」と「過激派」の衝突の繰り返しの中で、悪化した。
京都の街は殺伐としてきたし、幕府の威厳も落ちてきた。

薩摩藩の内部抗争の粛清に朝廷の覚えも良かった島津久光に京都の治安を
任せようとしたが、兵力1千名を保持しているので、朝廷は乗り気だったが、
下級公家や下級藩士は、島津久光に失望していた。

島津久光は、薩摩藩では役職が無い(殿様の父親と言うだけ)身分なので、
会津藩は快く思っていなかった。

「京都所司代」は、譜代大名(幕府の家臣)の役割だった。
そこで、徳川家の親戚に当たる「会津藩」に白羽の矢が当たった。

「京都所司代」の上に、「会津の殿様・松平容保」を『京都守護職』として任命した。

会津藩士1千名を率いて、
(1) 御所の守衛にあたる。
(2) 京都をはじめとする近畿の庶政を担う職であり、
   京都における幕府の失権の回復と尊皇攘夷過激派の勢力をそぐこと
   を目的としていた。

かくして、文久2年8月1日、京都守護職・松平容保は誕生し、現在の京都府庁の
ある場所に、『京都守護職屋敷』ができたのである。


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