第十六話  会津本陣跡(東山の麓、黒谷・金戒光明寺)

京都守護職に着任した会津藩主松平容保にしたがって京都入りした1千名の会津藩士
の宿泊場所として、徳川の親戚筋に当たる「松平家」の会津藩は、東山の麓・黒谷にある
徳川家の菩提寺『金戒光明寺』をあてがえられた。

現在は、「くろ谷・金戒光明寺」会津藩邸跡・会津殉職者墓地として、
一般公開されている。

会津藩は、他藩に比べると、悲惨であった。
たまたま、「京都守護職」の役目を引き受けた為に、幕末の動乱期の渦中にさらされた。

最初は薩摩藩が仲間であったが、途中から、長州藩、安芸藩、薩摩藩の討幕派が敵となり、
京都、大阪を中心とした「幕府対新政府」の戦争の真っ只中におり、1千名の藩士及び、
新政府軍が東に進み、「会津戦争」まで尾を引き、前途ある少年まで悲しい思いをさせた
「飯盛山の白虎隊」の悲惨があるのだ。

くろ谷は、山300坪が整備され松平家の葬送の例により神道で埋葬され、犠牲になった
会津藩殉職者らがひっそり眠っているのである。

訪れる人達が絶えない維新の志士たちが眠る立派な霊山墓地と比べると、ひっそりとしており
ひとしお哀愁の情がこみ上げ、思わず会津飯盛山に眠る「白虎隊」の墓が偲ばれ、涙・・・。

供養塔の前には、会津若松城の写真、近代化された会津若松市街地の写真、
ゆかりの方達が絶え間なく訪れている雰囲気を感じ、“会津っぽ”に安ど。。。

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