第38話 新撰組の隊士たちが駆け上がっていく

NHK大河ドラマのオープニングのシーンで、
石階段を疾風のごとく駆け上がっていく隊士たちの映像が脳裏に焼きついています。
この石階段は、黒谷にありました。


各写真をクリックすると高画質写真が見られます、 閉じる時も高画質写真をクリックしてください。

・・・ おしまい ・・・

  「くろ谷・金戒光明寺」会津藩邸跡  
  浄土宗くろ谷金戒光明寺は徳川家の菩提寺。
幕末の京都で「所司代の役回り」を務め「京都守護職」の本陣が置かれ
任命されたのが「会津藩主」松平容保。

くろ谷は、山300坪が整備され松平家の葬送の例により神道で埋葬され
会津藩殉職者らが ひっそり眠っている。

訪れる人達が絶えない維新の志士たちが眠る立派な霊山墓地と比べると、
ひっそりとしておりひとしお哀愁の情がこみ上げ、
思わず会津飯盛山に眠る「白虎隊」の墓が偲ばれ、涙・・・。

供養塔の前には、会津若松城の写真、近代化された会津若松市街地
の写真、ゆかりの方達が絶え間なく訪れている雰囲気を感じ、
“会津っぽ”に安ど。。。

 《 不器用なまでに実直に生きた会津の先人。》

頑固者“会津っぽ”(会津人気質の意)

  「会津三泣き」と言う言葉があります。
 
@ よそ者が会津に来ると、地元の人となかなか溶け込むことが
   できないのだ。  このつらい思いに泣かされる。
A 日時の経過とともに人情深く、人の良い会津人に感激し泣かされる。
B 人情の深さを十分体験した人にとって会津を去ることは辛くなる。
  別れの辛さにまた、泣かされるのだ。

****************************
 会津を知る人が書いた。
****************************
長州藩とは握手せず!
昭和61年の出来事であった。

長州藩(山口県萩市)から、「明治維新から120年が経過した。
この辺で手打ち式をしよう」と提案があった。
このときの若松市長は了承したのだが・・・・・・・
しかし、会津人は許さなかった。
握手しようとした市長は、選挙でみごと落選してしまった。

会津人は、「時期早々だ。まだ120年しかたっていないじゃないか!」
長州藩と握手を交わす難問題は21世紀に持ち越された。
<某大学教授談話>
明治維新の伝統、文化の精神を頑固に守っているところがひとつぐらい
あってもいい。

”会津っぽ ”

平成元年、リクルート事件で竹下首相は退陣し後継者として会津出身の
伊藤正義議員が指名された。
「本の表紙を変えるだけではダメ」といって辞退してしまった。
あ〜、もったいない話しである・・・・・
「ならぬものはならぬ。」のだ!!!

  会津人の性格は、付き合いにくいといわれています。
会津地域は、閉鎖的なところだといわれています。
会津人には頑固な人が多いといわれています。
会津人には実直な人が多いといわれています。

会津人の性格を物語るものとして「会津の三泣き」が有名です。
「会津の三泣き」は、会津に関して3回泣くという意味です。

会津地域に移り住んだ人は、会津人の付き合いにくい性格に泣きます。
その後、会津人の心の暖かさを知って泣きます。
最後に、会津地域を離れるときに会津地域を離れたくなくて泣きます。