第28話  坂本龍馬は精力的に動いた。

私・近藤勇の全国規模のシニア130人の会員からなるメーリング・リストに、
3年来の仲間がいる。
日の出前に家をでて、毎朝2時間、京都の町をウォーキングする(全国ウォーキングランク
でも、トップクラス)の友がいる。
和装小物卸業を営み、広島、北九州、長崎、熊本へ営業活動しているので、先日、
新撰組の話題が下関、小倉と広がったおりに、写真を撮ってきたよと、160枚送ってくれた。

本来なら、彼に京都特派員をお願いすべきだが、女性のほうが、何かと、優遇される。
撮影場所に入り込むには、得策と考え、「島原の太夫」を京都取材班とした。

彼のハンドルネームは「都人」・・・いかにも、京都人である。
ホームページも公開しているので、彼の健脚振りを紹介しよう。

すでに還暦を過ぎ、今なお、果敢なシニア活動のホームページは、
         
ここをクリックして下さい。

*********************************************
坂本龍馬は、土佐国高知城下で天保六年十一月十五日、土佐藩士(郷士)
坂本八平直足39歳、母幸38歳の二男として誕生した。

少年時代は、高知城下の私塾に通い、素読の手ほどきを受け、14歳の頃から
小栗流剣術を修行する。
嘉永六年三月に、剣術修行のため江戸に行き、北辰一刀流千葉道場に入門して、
一年余りの修行の末、土佐に帰るとき、ペリーの来航に出会う。
・・・・ この時、龍馬は19歳である。・・・・

28歳の時、土佐藩士沢村惣之丞と共に土佐を脱藩し、三度(みたび)、
江戸の千葉道場に入門した。
道場主を通して幕臣・勝海舟と知り合い、勝海舟の門下生となり、
神戸に出来た「神戸海軍操練所」で海軍航海術を学ぶ。
この頃、薩摩藩の代表・西郷隆盛とも知り合いになったのである。

慶応元年(1865)三月十二日、「神戸海軍操練所」が廃止され、龍馬は勝塾の同志たちと共に
薩摩藩の「胡蝶丸」に乗り込み、大坂、長崎を経由し、五月一日に鹿児島に入った。
半月ほど、西郷隆盛の所に居候していた。
そして、長州藩のリーダーである桂小五郎に会うべく、五月十六日、鹿児島を立ち、
途中、大宰府に拘束されている「三条実美や東久世永通禧」に拝謁する。

同時に、長崎に土佐藩のメンバーと薩摩藩の合弁会社となるべき「亀山社中」を設立した。

この「亀山社中」は、外国から、軍艦や武器弾薬を輸入する「商社のルーツ」であった。
閏(うるう)五月一日〔五月が2回あること〕に、下関に入り、六日には、長州藩のリーダーの
桂小五郎と面談した。

実は、西郷隆盛と桂小五郎を合わせる計画を練っていたのだが、西郷隆盛の行動を
見守っていた中岡慎太郎が、西郷隆盛は、薩摩を出て下関に拠るつもりで有ったが、
急遽、京都に直行したとの情報を持ってきた。

二十九日に中岡慎太郎と共に下関を立ち、京都に向かう。
六月二十四日、京都薩摩藩邸で、西郷隆盛と面談する。

九月二十四日、西郷隆盛と共に京都を立ち、大坂に行く。
薩摩藩の方針を手紙を持って、十月十四日、下関新地の林家で桂小五郎、高杉晋作、
井上聞多、伊藤俊助らと会食をした後、二十一日下関で桂小五郎と面談した。

十八日には、長崎の亀山社中では、洋艦「ユニオン号」を手にした。

この様に、頻繁に、薩摩藩と、長州藩の代表者と面談しているのを察知した幕府側は、
十二月三日に、肥後藩士上田久兵衛を大坂城に召し、「薩摩藩と坂本龍馬の動向」を調べた。

亀山社中は、のちに「海援隊」と組織化され、薩長同盟に土佐藩も加わり、明治維新への
原動力になっていったのだ。

長崎は、坂本龍馬と海援隊の係わり合いが深かった。 

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。


画面一杯の高画質写真で,坂本龍馬と、長崎の係わりをご覧下さい。


各写真をクリックすると高画質写真が見られます、 閉じる時も高画質写真をクリックしてください。

・・・おしまい・・・