第30話  黒船艦隊が日本を変えた

徳川幕府は250年間、オランダ国以外とは鎖国政策を取り続け、
国内的には統一されていたが、海外では、列強の技術開発は進んでいた。

隣国の中国大陸は、イギリス国とのアヘン戦争の敗北で、領土の一部を植民地化された。
日本沿岸にも、開国を求め外国船が頻繁に近づいてきた。

1846年・・・アメリカ特使・ビッドルが「通商要求」で、浦賀に来た。
1849年・・・イギリス船が、江戸湾を測量した。
1853年・・・ロシア使節、幕府の判断で長崎に回される。


嘉永六年(1853)六月三日、アメリカのペリー提督が率いる黒船艦隊が江戸湾に
入ってきた。  さらに、江戸湾奥まで入り込み、測量を始めた。

そして、六月九日、浦賀(現在の横須賀市久里浜)に上陸したのである。

今回は、アメリカの国書をペリー提督に持参させていた。

江戸では、黒船4艘で上へ下への大騒ぎだった。

翌年の嘉永七年(1854)一月に、国書の返事を貰いにペリー提督は再び、浦賀にやってきた。
このときの黒船艦隊は、軍艦が7艘、輸送船が3艘の計10艘であった。

坂本龍馬は江戸の千葉道場にいて、佐久間象山の門弟であった。
坂本龍馬は、近藤勇と、土方歳三を連れて、浦賀の黒船を見物に行ったのである。

この三人に共通する人物を調べてみた。
坂本龍馬に「日本を変えようとする」影響力を与えた人々である。

佐久間象山・・・1852年・・勝海舟の妹・順と結婚。
        1853年・・ペリー来航に際して藩の軍護役として「浦賀日記」を著す。
        1854年・・ペリー再来時、横浜での日米交渉警護「横浜陣中日記」を著す。

坂本龍馬は、佐久間象山に入門し、千葉道場での剣術修業のかたわら、西洋砲術を学んだ。
近藤勇も、京都に行く際に、中仙道を通った時、松代藩で佐久間象山に挨拶をしている。

坂本龍馬は土佐藩を脱藩し、三度目の江戸であり、千葉道場に寄宿することになった。

坂本龍馬には、黒船の影響が強く残っており、「海防策」について、師を求めていた。
福井藩主の松平春嶽を訪ねると、咸臨丸で太平洋を横断してきた勝海舟を紹介された。
勝海舟は薩摩藩主とも付合いがあり、西郷隆盛とも知り合う。

「新しい日本は如何にして作るかを論じた」仲間は、
黒船来航時のそれぞれの年齢は、次の通りであった。・・嘉永六年(1853)・・

佐久間象山・・43歳、勝海舟・・・30歳、西郷隆盛・・26歳、
松平春嶽・・・25歳、桂小五郎・・20歳、近藤勇・・・19歳、
土方歳三・・・18歳、坂本龍馬・・18歳、徳川慶喜・・16歳

さて、黒船艦隊からペリー提督が日本の地に降り立ったのが「久里浜」である。
私、新撰組局長が神奈川県海老名の自宅から、実家の千葉県に帰るのに、
乗り継ぐのが「東京湾フェリー」久里浜港である。
歩いて150メートルのところにペリー上陸記念碑は立っている。

下の写真をクリックして、スライドショーをご覧ください。

 

・・・おしまい・・・