第25話 長州藩士・高杉晋作を語る・・・前編

・・・・ 『奇兵隊』の挙兵 ・・・・

高杉晋作は1839年8月20日、萩城下菊屋横丁で、毛利藩の重要な役職に就き、
二百石どりの高杉小忠太の子として生まれた。
幼少時代は剣道に没頭し、17歳で吉田松陰の「松下村塾」に入門した。

20歳で井上マサと結婚する。(1860年1月23日)

20歳の時、江戸から信州を回って旅をしているが、この時、
佐久間象山に会い、「外国を見なければならない」と教えられている。

22歳の時、長州藩を代表して上海に渡った。
この時、アヘン戦争に負けた清国の姿を目の当たりにした事が、高杉晋作の
後の人生に大きな影響を与えた。

文久三年(1863)に、攘夷運動の高まる長州藩は、関門海峡を通る外国船に対し、
五月十日にアメリカ商船、五月二十三日にフランス軍艦、五月二十六日にオランダ船
を砲撃した。
この年の6月に、アメリカ・フランス軍艦の報復攻撃を受け、近代的な兵器を
備えた外国船の強さを思い知らされた。

23歳の時、毛利藩主から呼び出され、「下関の防衛を命じられた」(6月4日)
下関で回船問屋を営んでいる白石正一郎の家に行き、6月8日に「奇兵隊」を結成した。

「奇兵隊」は、武士、農民、町人の身分の区別なく入隊できるという新しい考え方で
組織された軍隊で、当時の日本では最も強い兵力となっていた。

この時の長州藩は、尊皇攘夷派の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、真木和泉らの
死亡と、「蛤御門の変の罪」を問われ、幕府に攻められ(第一次長州征伐)屈服させら
れたために、幕府に従おうとする考え方の藩士が多くなってきた。

高杉晋作は、倒幕を主張する『急進派』と幕府に従おうとする『俗論派』に二分された
「長州藩」を『倒幕にまとめる』ために、元治元年十二月十五日(1864)、
下関の功山寺でわずか80人で挙兵し、長州藩にクーデターをかけた。

<<<<<<< 北九州に、特派員が出来ました。・・・・ぱそママさんです。 >>>>>>>


この戦いを『大田・絵堂の戦い(1865年)』という。
 
25歳の時、元治二年(1865)二月二日に長州藩の内戦を終結して、藩論統一をした。

四月に、長州藩士から命を狙われるので、愛人「おうの」と四国へ逃避行した。

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