相棒の栞  モバイル版

長野県千曲市八幡
撮影日時 : 2024−2−9
4月の栞 『再びの姨捨ペットボタル撮影も左足大腿直筋断裂の大怪我』
9日再び姨捨の棚田を再訪。5日に降った雪が、長野では随分残っていた。少し早めに出たので、いつもの姨捨smart ICの手前の筑北で降り聖高原の雪景色を楽しんだ。この雪が後でとんでもない災いを招くとも知らずに・・・。

この日は棚田を上からアプローチする為、姨捨駅近くの駐車場に車を止め、急坂を下る事にした。これがそもそもの間違い。
道は途中まで除雪されていたが、ペットボタルが設置されてある手前から、轍部分の凍結、それ以外はやや凍った雪。雪が残る棚田のペットボタルなら、学生時代の友人(29日SBC信州放送で姨捨の棚田が紹介された。「信州田毎の月実行委員会」会長として、7代目「ホタルうづらや」番頭武井音兵衛の名前が出てしまっていたので、名前を伏せる必要もなくなったが。)も少しは納得してもらえるか?という気持ちが強かった。雪の上なら多少は滑るものの歩幅を小さくし、慎重に歩きさえすれば大丈夫だと思った。しかし、気温が下がった夕方過ぎ、おそらく前日から凍ったままの坂道は、雪道用のブーツさえグリップしなかった。両手にカメラ(うち一台は三脚付き)を持っていた事も無謀だし、簡易のスノースパイクを持参していたにも関わらず、無防備過ぎた。

右足が思い切り50センチ以上滑り、左足は全体重を支えるべく滑らずに完全に折れ曲がった。「ブチっ」という音は以前アキレス腱を切った時の音と同じだった。この瞬間は、思い出したくもない。十数日間作文が進まなかった。幸い頭は打たなかったようで、意識が途切れる事もなかった。しかし、立てない!歩けない!当然激痛。四つん這いになって這いずるしかない。ジジイが赤ちゃんのハイハイ姿。誰もいなかったから恥ずかしくは無かったが、そのレベルの話ではない。カメラがどうなったかなど気にかける余裕もない。10メートルほど這い上がっただろうか?一歩這い上がるごとに三脚がガチャガチャ凍結路を叩く音に、20メートルほど離れた場所にいたカメラマンが気付き「どうしたのですか?」と声を掛けてくれた。事情を話すと、「ちょっと待っていて下さい!車取って来ます。」と言って姿を消した。車って言ってもこんな急坂の凍結路走れるのか?見知らぬカメラマンは自分の機材を畳み、平らな道を歩いて行った。しばらくすると遠くにヘッドランドが見えた。それは、四駆の軽トラで、これ以上最適な車はない。棚田には何回も足を運んでいるその人は、凍結路を慎重に下り、自分が車を止めた場所まで送ってくれた。千曲IC近くに住んでいるという。「ホテルうづらや」も知っていた。お礼にお札を差し出したが受け取らなかった。「救急車を呼ぶんだったら、姨捨駅の南側踏切と言えば分かりますよ!」とまで。下手をすれば携帯さえ壊し(カメラは当然壊れたかと思いきや、フードがどこかへ消えた以外ほとんど無傷。勿論作動する。)、彼がいなかったら、自力で車まで辿り着くのはほぼ不可能。後で運び込まれた藤沢市民病院で、「体力を使い果たし低体温症か何かで、命も危なかったのでは?」と、救命救急士に言われた。痛みはひどくなり立てないし歩けない。クルマからクルマへ肩を貸してもらいながら乗り移る。自分の車に乗り移り、ようやく「命だけは助かった。」と思えた。相当痛かったのだが、その時は、これからどうしたらいいかを考えることで頭が一杯だった。救急車を呼ぶか?武井に連絡すればホテルだから、とりあえず泊めてくれる。しかし、どちらも千曲市で世話になり、ここでの入院は間違えない。事を大きくしたら、多分車を運転して帰れとは誰も言わないだろう?幸い右足は何でもないので、アウトランダーの運転には問題ない。ただ5時間以上運転できるか?途中リタイア覚悟でスタートボタンを押す。痛みは和らぐことなく、トイレに行きたくても歩けない。車を右側に止めドアに寄っかかりながら立ちションの??。結果、激痛との闘いの末拙宅到着。この時点で再びハイハイ、スコップを松葉杖代わりとした。車から鍵と財布のみポケットに入れ23時頃無様な醜態を誰にも見られず玄関に辿り着く。1分で歩ける道を30分かかった。

10日土曜日


二階まで上がるのも至難の業。保険証を入れたバッグを取るのも、あらゆる物を掴みながらの片足立。そしてケンケン。階段を降りる時は滑り台スタイル。靴が履けないのでサンダル。最低限の用意はできたので、日付が変わった頃119番。救急救命センターへ運ばれるも、整形外科医はおらず。状況を何人かの看護師や技師に聞かれるも、結局受けたのはレントゲンとCTのみ。頭を打ったか否かばかりしつこく聞く。長野から右足一本で5時間くらいかけて運転して来たのに、頭がイカれているわけは殆どない。イカれているとすれば、生まれつきだ。骨は折れていない事ははっきりし、結果「とんぷく」(痛め止め)だけもらい午前5時に「来週の火曜日に来て下さい。」で放出。こんな時間、5社ほどタクシー会社に電話しても、どこも断られる。仕方なくゴーゴータクシーのアプリを使う(バイトが以前アプリを入れてくれた、操作を教えてくれたのは看護師、自分は言われるままボタンを押しただけ)。15分程で藤沢市村岡地区から来てくれた。

13日火曜日

「以前アキレス腱を切った時、ブチっと鈍い音がしたのだが、あの時と同じ音がした。」と言ったにも関わらず、再度レントゲンをとり、膝関節が左右にどのくらい動くかの写真を撮る。幸い左右の動きに殆ど差は無い。膝関節の軟骨に異常は無さそう?ところが、太腿を膝まで少し強めに押していくと、膝近くで一度山になり、その後盆地、そして、お皿(膝)にたどり着く。絶対切れているのに診断は捻挫。ふざけるな!この日は、足が曲げられないように9千円位のニーブレースを買わされ、松葉杖と派手なブルー色のそれを着けて帰る。

20日火曜日

腫れが酷く水も溜まっているようでブヨブヨの患部を見て、エコーを使う。他の先生と画像を見ながら、ヤバい話をしている。悪いけれど、初めから自分にはわかっていた。たとえMRIが3月まで使用できないという現状があっても、患者の話はもっとよく聞いて欲しかった。予想通り切れていた。確かに大腿四頭筋断裂は珍しいらしい。だだ、藤沢市民病院をはじめ、神奈川県内の多くの市立病院は、医局を持たない。横浜市大病院から派遣される比較的若い医師が多い。だからパターンにはまった骨折などは、マニュアル通り何の問題もない。ただ、自分はこれで1週間無駄にしたと言っても過言ではない。翌日入院となる。

22日木曜日

14時30分、全身麻酔の手術開始。2時間ほどかかった。予定より30分オーバー。レアケースで学会発表ものだそうだ。患部に痛め止めをたっぷり注射されて部屋に戻る。その夜は、傷口開放の画像が頭から離れず眠れない。次の夜は痛み止めを飲んでも効かないのか、患部で痛みが駆けっこをしている。膝の皿の上では痛みが飛んだり跳ねたり。思わずイタとかウーとか声が出る。個室だからいいものを、この痛みが治らないと相部屋には移れない。その次の日は、痛め止めが効いたのかグッスリ。次の日は寝過ぎたせいか殆ど一睡も出来ず。

26日月曜日

いきなりリハビリが11時に入る。別に何するでも無いが、使える右足と両手の筋肉を落とさないことか目的とか。これから平日は毎日呼ばれる。退院は左足が着いても大丈夫になるまでで、およそ6週間は見ているらしい。その後、近くの町医者でのリハビリ。それを聞いた時、かなりショックを受けた。確定申告の手続き、支払いの件などどう処理したらいいのか?大腿直筋というのは、筋肉の中でもかなり丈夫な部位の一つで、滅多に切れることはないらしい。それだけに、ここにかかる力は相当な物があるので、じっくり治さなくてはならない。再び糸で繋いだ部分が切れる事を最大限注意するように、何度言われたことか!

27日火曜日

毎日11時頃リハビリに呼ばれる。足の関節の曲げ伸ばし、股関節の上下運動そしてバーを伝っての歩行。平行棒の間を右足と両手で前に進むのだが、歩き方の得点は85点。ヘソを前に出す感覚で歩くようにアドバイスされた。午後になるとCPM 持続的関節他動訓練器という機械で(足を載せ自動で膝を曲げる)で約1時間トレーニング。切ったところが鈍く痛くツッパる。角度は5、10、15度と次第に増やして行き30度迄が1週間での目標。

28日水曜日

昨日同様、11時頃リハビリに呼ばれた。昨日から県立保健福祉大学リハビリテーション学科3年の女性実習生が自分のリハビリを見学している。何もせず、ただ見ているだけだがメモを取る。軽く足関節の筋肉を動かしたあと、異様に喉が渇いたので、実習生のYさんに「水が欲しい。」と言ったら「それは僕の仕事なので、僕でいいですか?」と横から言われ、理学療法士Nさんが持って来てくれた。Yさんに横須賀花火大会の事を話したら、昨年中止になった事を知っていた。いい花火大会だから、今年は是非行って欲しいと伝えておいた。

29日木曜日

今年は閏年なので、1日だけ治療に専念出来る24時間が貰えたと考えるしかない。 筋肉を繋いだ部分は、時々暴れてピクッと痛みが走るが少しずつ回数は減って来た。「術後一週間経つが、どのくらい回復しているのか?」と理学療法士に聞いて見たが、「なんて答えていいか?医者じゃないからわからない。」との返事。「ただ言えるのは、ニーブレイスなしで躓いたら確実に切れる。」との事。リハビリ専門の転院の話も出た。

3月1日(金曜日)

今日で実習生のYさんの二週間の実習期間が終わる。大学に戻ったら、レポートにまとめてクラスで発表するそうだ。患者の何人かに付き添って勉強を一週間して来た。一人前の理学療法士になれる事を祈るばかりだ。転院先はなかなか決まらない可能性があるので、午後から4人の相部屋に移動した。ここなら保健の適応があるので、長引いても気にすることはない。リハビリもCPMもスケジュールは変わりなし。相部屋からは、それぞれのグチが聞こえる。7時半頃になって、隣の患者(Y)さんが「だれか故郷を思はざる」「旅愁」などを歌い始めた。ラストは「蛍の光」いよいよバイバイか?「うるせーな」と小声で言うと、ピタリと止んだ。

2日(土曜日)

隣の患者の奥さん昨日に続き15時に来る。旦那の食べたいものを色々買って来て献身的。昨日フライドポテトのSを買って来たら、明日はMにしてくれ!とまで言っていたのに、「昨日来なかった。」と言い出し、奥さんと軽い言い争いをしていた。こういうのを認知症と言うのだろうか?「明日は、来ませんからよろしく!」と言って帰って行った。なんか老夫婦の悲哀を感じてしまった。自分の方は、今迄トイレは車椅子で看護師に連れて行ってもらったのだが、松葉杖ではダメかどうか聞いてみたら、一度歩いてから判断しますと言われ実演。「上手ですね」の声が後ろから聞こえた。やったー!

3日(日曜日)

段々何曜日かがからなくなって来た。土日はリハがないので、CPMを午前午後2回出来ないか?聞いたところ拒否。角度も30度のまま。主治医曰く「僕も余り経験が無いので、慎重にやる!」との事。頷くしか無い。 斜め前の患者Kさん、電話でお話ししているのを聞くと(聞きたくなくても、声もでかいし、意見交換的にご自身の考えを述べるものだから、嫌でも耳に入る)、股関節の手術待ちだそうだ。その上、ガンも患っていると!なんか急に同情したくなった。これって、人生のドツボではなかろうか? 整形外科とガン、自分なら股関節治したら、車で未だ尋ねていない近畿以西に出かけ、ガン治療は諦め松尾芭蕉になってしまうかも?夕食に、ひな祭りを祝ってチラシ寿司と桜餅が出た。寂しいけれどこれが唯一の喜び。

4日(月曜日)

日付が変わる頃、Yさんがトイレに行きたいと、ナースコールしていた。1時間くらい踏ん張っていたようだが、無駄な抵抗だったようだ。仕方なく看護師がベッドの上に横になってもらい浣腸。ところがウ○ コが硬すぎて浣腸が入らない。仕方なくナニを大量に掻き出す事に。ウーウー言いながら耐えていた。臭いのと五月蝿いのとで眠れない。もっと早く下剤を処方してもらうべきだ。Yさん、火曜日には転院する予定。そのYさん、看護師さんを呼び車椅子でトイレに行く決まりを無視、1人で行ってしまったのがバレ、偉く叱られていた。何でも家の中で転倒して首を痛めたそうで、「病院内でも転ぶ恐れがあるので、絶対やめてほしい。」と大きな声で(少し耳が遠い)話していた。トイレまで2〜3メートルを数メートルに直すしかないですね。 離れていないので、つい無断で行ってしまうのも解る。今日のリハは、松葉杖の正しい使い方。今迄も後ろに倒れそうになったり、杖の幅で迷う事があったのだが、これでスッキリした。それにしても、今まで足で支えていた体重を、両手で支えるのは可成り大変だ。

5日(火曜日)

浣腸Yさんが、転院した。昨日看護師にキツく言われてから、すっかり大人しくなり、そのまま介護タクシーが迎えに来て車椅子で出て行った。8時45分頃主治医のI先生が回診に来た。今CPMで30度迄しか足を曲げられない点を尋ねると、2週目から45度に挑戦するそうだ。少しやる気が出て来た。先は長い。1日ずつ前に進むしか無い。Yさんの後、Eさんがすぐに入って来た。整形外科は大繁盛だ。19時過ぎ、主治医のI先生が手術を終えて立ち寄ってくれた。絆創膏を剥がしてくれ、足の曲がり具合をチェック、少し痛かったが45度をクリアー。明日からCPMは45度設定だ!但し、「予定が早まることはないよ!」と、念を押された。

6日(水曜日)

CPM(持続的関節他動訓練器)の屈折角度を45度にして初挑戦。60分経ったら呼ぶように看護師に言われていたのだが、途中で眠気を催し、気がついたら15分オーバー。「余裕でしたね。」と看護師。ただ、ショックだったのは1週間ごとに15度ずつ増やすと言う計画だそうで、120度までだと、丸々3月中には終わらない計算。その後松葉杖なしの歩行訓練もある。すぐに転院することもできない。少しずつ左足に体重をかけていく訓練をするそうだ。全治2ヶ月以上かかる計算だ。斜め前のKさん、もう3ヶ月も入院しているそうだ。相当煮詰まって来ていて、「一睡もできなかった!早く出たい!」と看護師数人に溢していた。股関節と悪性腫瘍、何とも気の毒だ。自分は未だ見通しが立つだけ良しとしなければ。

7日(木曜日)

手術後二週間が経過。リハビリの理学療法士の話によると、45度.60度・・・と一週間に30度ずつあげて行き、120度まで訓練した後、左足に体重の3分の1、半分、3分の2と負荷をかけていく訓練をがあるそうだ。それも1週間ごとだと言うから、丸々4月一杯アウトと言う計算になる。手術後、退院までの計画書の全体を示してくれなかったのは、余りにも長期入院だからか?はたまた絶望感を与えないためなのか?返す返すも、とんでもない大怪我をしてしまったものだ!

9日(土曜日)

股関節と悪性腫瘍で2ヶ月以上入院していたK氏が月曜日に退院する。と言っても、11日には横浜市立大病院の外来で通う事になるらしい。経緯はわからないが、股関節の方(未だ手術は、していないらしい)は、自分で車椅子に乗り移れるようになったので、自分から病院を出して欲しいと盛んに訴えていた。退院が決まってからは、心穏やかに過ごしている。ぐっすり8時間眠れたとか。病院側は、退院したいという患者を無理に引き留めたりしていない感じがする。自分の方はCPM45度の訓練が続く。

10日(日曜日)

話題がなくなってきた。昨日17時45分頃、元教え子とお母様が、頼んでおいた食料品を買って来てくれた。今日は弟が歯磨き粉、耳かき、歯間ブラシ、目薬などを持って来てくれ、いよいよ長期戦の構え。命に関わる事ではない。日にちが経てば回復するとは言え、暇すぎて頭がおかしくなりそう!スマホで色々あさる毎日が続く。

11日(月曜日)

今日退院のKさんと初めて会話した。日向ぼっこの為、窓際に出ていたところ「おはようございます」と挨拶された。何で股関節の手術ができないのか聞いたところ、体内の菌が完全に消えるまで手術ができないそうだ。痺れを切らしての退院と言ったところか?薬で菌を減らしているらしく時間はかかりそうだ。取り敢えず今日退院し、27日に外来。その間、横浜市大病院へも行く。12月25日に入院したと言うから2ヶ月半の期間よく頑張ったと思う。入院費32万円余りをカードで支払って介護タクシーで退院していった。

12日(火曜日)

突然転院の話が来た。15日金曜日か16日土曜日の10時。弟にどちらが都合のいいか連絡したら、金曜日との返事。リハでお世話になっているN先生にも伝えた。午後になり主治医の先生が病室に来て、CPMが転院先にないので転院の話は無しにすると言われた。それと、僕は今月一杯で勤務先が変わるとも。「だったら31日迄先生に見てもらいたい。」と伝えた。患者支援センターの担当者も、正式に転院延期を伝えに来てくれた。そのあとすぐリハのN先生が来て、転院は介護タクシーでなくても大丈夫だと言う事、松葉杖は持ち出しても良いので必ず返してくれる様に伝えに来た。この時点でN先生は、転院が無しになったことは知らなかったのだ。転院無しだと伝えると「じゃあ、もう少し一緒に出来ますね!」と。何と優しい言葉だろう!

13日(水曜日)

9時30分、主治医のI先生が角度チェックに見えた。60度へのチャレンジだ!これをクリアーしたからと言って、途中経過にしか過ぎない。しかし、60度で躓けば退院が遅れる。結果・・・「60度余裕だね!」更にもう一度屈折。かなり痛い!「痛たたぁー」「80度近くまで行くな!当面60度で、計画を少し早めよう!」ヤッタァー。計画が遅くなることはあっても、早くなることはないと言っていたのに!

14日(木曜日)

生徒たちからバレンタインチョコをもらったのに、このザマではどうすることもできない。退院したら倍返しするしかない。本日8時過ぎ、I先生がCPM新計画の案内に見えた。それによると、60度は3日間金曜迄。75度は土曜日から21日の月曜日からは1週間、90度プラス左足設置負荷50%にトライするそうだ。「退院が少しずつ見えて来た」とも仰ってくれた。嬉しい反面自信がない。その辺のことをリハのN先生に聞いたところ、「筋肉が徐々に回復していくので、初めは無理でも少しずつ達成できると思う」と言われた。
今日、初めて神奈川中央交通の新しいカラーのバスが市民病院前を出ていくのを見た。中々現代風でいい感じ。前後の赤が象徴的だが、中央のベージュとオレンジは江ノ電バスのカラーを縦にした感じ。最近藤沢はいすゞ製が多かったのだが、今回は三菱ふそう製。高山車庫には、現時点で1台(ふ45)しかない。

15日(金曜日)

手術後4週目に入った。今日までCPMは60度なのだが、看護師が設定を間違えて90度にしてしまった。「オイオイかなり攻めてくるな!」と思っているうちに痛みが増して来た。「チョット、角度間違ってない?90度ぽいんだけど・・・。」看護師慌てて機械を止める。「すみません、90度でした。」60度に再設定し、トレーニングが始まった。しかし、もう少し慣らせば90度も実現可能な状態だとわかったのは収穫。 

 16日(土曜日)

窓側の隣の患者が出ていったと思ったら、すぐ10時過ぎに新患が入ってきた。iPadか何かを持ち込んだらしく、イヤホンで聞かないものだから、ボリュームを最小にしても音が漏れてくる。看護師に3回注意されても効き目無し。タチ悪い事に看護師が来た時だけスイッチを切る。間違えて、逆さ操作で2度ほど大音響。それでもすみませんの一言もない。極め付けは、夜のいびき??。往復ではないにしても、吸い込む時の音はすごい。時々吸い込みが不足しているのか呼吸が乱れる。お陰で、2時間寝たかどうか?もう一つの極め付けもあった。便の肛門からの掻き出し第二章。暫く部屋は・・・。看護師も大変だ。今日からCPMは75度になった。少し筋肉は突っ張るが、「トレーニングしているな!」と言う感じ。

17日(日曜日)

今日も、最小ボリュームでアニメか何か見ているらしく、声優の甲高いが響く。15時30分のシャワーの時、車椅子を押してくれた男性看護師に伝えた。「その事は、Mさんからも苦情が出ていて、今から注意に行くところです。」何と言うタイミングだろう!早速Mさんにお礼を言う。看護師も「また音出してるようだったら、言ってください。」と、これでストレスはかなり改善された。「いびき」は、なるべく本人に昼間寝かせて、夜に眠れなくさせるしかない。(悪)

18日(月曜日)

朝の回診が「いびき」患者の所にきた。左膝関節痛が続くらしく、採血し細菌検査をするそうだ。午後からは、透析もあるらしく大変だ。古傷の股関節の痛みが腰あたりまで来るとも訴えていた。仰向けにも一苦労していた。そうしているうちに「部屋移動」の号令。ベッドに乗せられたまま、ナースステーション近くの部屋へ移動して行った。傾向としては、ナースステーションに近い患者さんほど状態は良くない。「いびき」さんには悪いけど彼の移動は「地獄で仏」とまでは言えないが、それに近い感じがする。今日からぐっすり眠れそう?!夜8時近くになって、オペの途中で主治医のI先生が見えた。髪はボサボサで、立っているのも辛そうな雰囲気。ただ一言「来週には退院しましょう!その後、通院で!」思わず手を合わせて拝んでしまった。声に出して「ありがとう!」とは言えず。言葉に詰まるものがあった。その後すぐ、「コードブルー東館8階」のアナウンス。入院患者の急変(心肺停止など)だ!何とか助かると良いが・・・。大体、医師が集まり心臓マッサージをするので、それほど心配はないらしい。

19日(火曜日)

カリフォルニア在住の元教え子が、「友達と京都、富士山周辺を回りたいのだけれど、富士五湖周辺のプランを立てて欲しい。」と言われて、先日来日した。彼女の家族らと楽しむ様子が何枚も送られて来たのだが、近況を聞かれ事実を伝えた。すると2週間程前、彼女の友達が二子玉川駅の階段で滑って、左足太腿の筋肉と骨を折ったとLINEで教えてくれた。思うに、階段のほうが傾斜はキツイので、骨まで損傷したのかな?と。その人のことを思うと、見知らぬ人とは言え、一声かけてあげたくなってしまった。市民病院も怪我で入院する人は後を断たない。数日に一回位の割合で、4人部屋でさえ骨折の患者が手術を受け、大体、肩や手だと翌日退院して行く。自分はかれこれ一ヶ月、「主」になりつつある。

20日(水曜日)

CPM90度にチャレンジ!初めに一度80度を試す。5度の増加なんて何でも無かった。85度に。多少「痛・気持ちいい。」念の為85度を30分、その後90度に。最後の5度は「ウー」って来るが、多少の我慢で乗り切る。20分過ぎに心配してくれて見に来てくれたけれど、あと10分頑張ってみた。今日は祭日なのでリハビリは休みだが、明日からケガをした左足に体重の半分をかける訓練が始まる。これからいよいよ最後の仕上げだ。

21日(木曜日)

朝、主治医のI先生が回診に来た。「今日から新しいステージですね。頑張って下さい。」体重の半分を左足にかけて、残りの半分は松葉杖で支える訓練だ。両手に体重の半分を覚えさせるのがポイント。初め、量りのメモリを見ながら感覚的に腕の力をコントロールする。何度かやって覚えたら、松葉杖と左足で体重を支えて歩行。100点満点で終了した。夕方リハの中原先生が病室に来て、「今時間ありますか?」と聞く。あるに決まっているけど、取り敢えず「はい」。「さっき訓練した通りに歩いてみて下さい。」と言われて100メートル以上歩かされた。I先生にも見ていただきたいけど・・・といいながら。何でも主治医にリハの報告をパソコンに打ち込むためらしい。極力左足に30キロ以上の負担をかけずに歩いたつもり。部屋に戻ると間髪入れずにI先生来室。「リハの先生が探してましたよ。」と言うと「チョット歩いてみてくれる」と言う。またかとは思ったが、次のステップへのテストの様に思えた。これは自動車学校の仮免許試験みたいだな?結果、月曜日から全体重をかけてのリハビリに移ることになった。お二人の先生に感謝!

22日(金曜日)

昨日左足に体重の半分をかけて松葉杖歩行した為か、今日は膝から上を中心とした筋肉にハリがあり、リハの時から曲がり方が悪かった。CPMも85度でかなりキツく、90度を一度試してみたが、とても耐えられない。焦る事もないので、今日は85度を1時間することにした。診療計画では、水曜日から120度の表記がありビビる。
リハビリにはいつも車椅子で行く。押してください人とは看護師では無いので割と気楽な話ができる。データから自分の職業も分かる。小3の息子がいるのだけど、公文教室は行かせている・・・とか、明日は小学校の卒業式なので休みます・・・とか。時には個人情報も。自分、「今日で一か月経って、いよいよ主だなぁ」と振ると、「一昨日、他の病室から移ってきた隣の患者さんなんか、移動3回めで3ヶ月以上いるわよ。」と。「事故か何かで頭を打ち、物が2つ見えるとか?」トイレもオシメだし、取り替えている時、臭いけどまぁ気の毒だと思い我慢する。

23日(土曜日)

何度も看護師に注意を受けても音漏れが直らない患者(I氏)の事を、自分よりいち早く看護師に相談してくれたM氏が退院して行った。現場作業中に右手で荷物を持ち、左手でパイプを掴もうとして掴み損ねて左踵(かかと)を強打。ギブスをしたまま、通院措置となった。先方から、「ドタバタしていて挨拶が遅れるといけないので・・・」と、ベッドまで来てくれた。自分も、エレベーターまで送った。一期一会とは言え、1日も早く(完治まで2ヶ月だそうだ)治癒をお祈りする。

24日(日曜日)

今日は、教え子の親子が見舞いに来てくれた。4月から高1になる。2ヶ月ぶりの再会なので、話に花が咲き、(生花もご持参頂き)(今では「話が盛り上がり」というのか)15分の面会時間を15分程オーバーしてしまった。何でも北陸新幹線の敦賀までの1番列車に乗ったそうで、それが中学校の卒業旅行とか。
廊下側の体重90キロ以上ある患者さん、善行中学校の社会科の先生だそうだ。グラウンドを走っている時、窪みに嵌り、大腿骨骨折とな!大柄で長身でも片足で90キロ以上は支えきれなかったのか?新学期が始まるので、こちらも早く退院したいと訴えていた。
明日から自分のリハは、全体重をかけての歩行だが、どのくらい歩けるか?  部屋やトイレやシャワーで以前から数歩歩いているけど・・・。バレてはいない。 

25日(月曜日)

主治医のパソコンへの書き込みが曖昧で、全体重をかけてのリハはお預けとなった。その代わり(代わりにはならないが)階段を1階だけ上り下りした。松葉杖の使い方の練習。ただ退院時、松葉杖を使わずに歩行できる様になったとすれば、今日のリハは不要になる。
6時半頃リハのN先生が見えた。実はかなりの確率で来てくださると思っていた。お互い昼のリハは不完全燃焼だったから。何をやるかも分かっていた。「杖一本で左足に体重をかけて歩いてみて下さい。」本来なら昼間リハビリでやる筈の事。問題なくクリア。脚の痛みも全く無い。その少し前主治医の先生が見えて、土曜日の退院を明言してくれた。早速弟に連絡を入れた。

26日(火曜日)

マッサージの後、いよいよ全体重をかけての歩行。予行演習として右手を手すりに添えて左足で立つ練習、全体重の一歩手前のトレーニング。痛み無し。いよいよ松葉杖なしで普通に歩き出す。問題無し。階段を上がり店内のコンビニ前を通り、生憎の雨なので外はほんの20メートル程。何の道具も使わずに歩くのは、なんて気軽なものなのだろう?!これから距離を伸ばしていくしか無い。ようやく最終段階に来た。主治医から正式に土曜日午前中の退院が告げられ、通院リハにテラモ近くの森川医院を紹介された。

27日(水曜日)

朝から快晴に近い天気。午後から以前の会社の同期が来るので、CPMを午前中に。95度30分、100度30分、かなりキツイけど、最大120度迄は許容範囲が出ている。逆にビビる。リハビリの方は、右手に軽く松葉杖を持って外を歩いた。病院前のソメイヨシノは数輪咲き始めていたが、蕾が固そうなものも多かった。筋力の衰えもさほど感じずに歩けた。明日の退院でもいい位だが、お世話になった主治医やリハの先生と「さよなら」するのも寂しい。      

28日(木曜日)

40日近くも入院していると、何回か部屋担当になる看護師とは顔見知りになりプライベートな話をする。そのうちの1人、小柄で看護師3年目の彼女は、血圧や体温を測るときなど、手を差し伸べ丁寧に接してくれる。数値が良かった時など、ハイタッチで病室を出て行く。彼女の名誉の為に断っておくと、きっかけは、以前同じ病室に居たK氏が彼女のことをお気に入りで、「俺の彼女」と勝手に決めつけていた。彼女の方は「名前もなかなか覚えてくれていないのに・・・」と不満顔。K氏が退院し、M氏が変わりにそのベッドに入ってきた時、彼女が「担当の○○です。」とM氏に自己紹介した。自分が「Kさんの元カレです。」と横からチャチを入れたのがきっかけ。それから、我々の間でK氏のことが共通の話題になり、顔見知りになった訳。
退院も近いある夜、セルフ・リハで廊下を歩いていると、その彼女がナースステーションから出て来た。軽く会釈すると「もう歩いているの?」と声をかけられる。近づいてきて「夜勤、疲れたよー」とそっと耳元で囁くけれど、見た目は活発な動き。その言葉、以前にも病室で聞いたことがある。「頑張って!」と言うしかない。「後で病室行くからね!」自分、触らない程度に腕を広げて抱擁のポーズ。「そんな事したら、どっか飛ばされちゃうよ!」他の看護師が通りかかったので、二方向に分かれる。午前1時頃、隣の患者のオシメのチェック。この患者、全く向上心がない。看護師たちが必死にトイレに1人で行く様に促すが、その気がない。挙げ句の果ては、オムツの取り替えで臭い。近々リハビリセンターへの転院だそうだが、こんなやる気のない患者、面接で受け入れてくれるのだろうか?
話が逸れた。約束通り、その彼女、本当に来た。「○○さん、寝顔見に来たのに、起きてた!」と言ってカーテンをそっと開けた。起き上がり、ハイタッチして「お疲れさん!」と言ってあげた。夜勤が終わる8時過ぎ、「おはようございます!」と元気な声。隣の患者のいびきがうるさくて睡眠2時間にも関わらず、パッと飛び起きる。「もうそろそろ退院ですか?」「土曜日の朝」「明日は私休みだけれど、土曜日は日勤で来ていますので、声かけて下さいね!」笑顔で頷く。

こんな些細なことでも24時間暇な入院生活では、チョットしたいい話になる。この看護師、みんなに元気が出る嬉しい気持ちを振り撒いているのだろう!整形外科の病室は若い人も多いから、彼らにとって、俄然心が晴れることだろう!中には本気になってしまう若者も居てもおかしくない。病は気から。回復も早まるに違いない。「白衣の天使」とはよく言ったものだ!

29日(金曜日)

昨日のCPMでは、110度迄は何とかクリア。しかし、120度は3回チャレンジしたがかなり痛い。ここで無理しても全体からすれば余り意味がない。瞳の大きい優しい看護師が、「一応120度まで出来たことにして、パソコンに書き込んでおきますね。」と甘くみてくれた。

主治医の先生が回ってきて、順調に回復すると、4月半ばには膝を固定している「ニーブレイス」が取れると言う。5月末までにはリハビリも終了し、やがてはジョギングができるかもしれないとの事。完全回復なんて無理だろうと思っていたが、それに近い足まで戻ることができれば十分だ。別に走ろうなんて思っていない。「ありがとうございます!」。今日で先生は、この病院を去る。「一緒にいなくなりましょう!」なんて冗談混じりの真実を言ってはいたが、いざその時が来ると、胸が詰まる。多分これが最後の挨拶だろうと思い「先生も頑張って下さい。」と言って見送った。「夕方時間あったら又来るよ!」そう言って病室を出て行った。

リハビリの先生には、最後のリハが12時に終了した時、十分お礼の言葉を発したはずなのに、再び午後5時頃N先生が挨拶に来てくれた。何かアドバイスをもらった筈なのに覚えていない。胸が詰まり、目に熱いものが込み上げて来たからだと思う。鼻水が流れ、2回も鼻をかんだ。只々、感謝感謝!

CPM中だった2時過ぎ主治医の先生も来てくださったが、寝たまま身動きがとれなかったので、とりあえず握手して別れた。社交辞令とは言え「何かあったら、茅ヶ崎市立病院に来て下さい。」と。これが最後の挨拶かと思いきや、リハの先生が部屋から出て行った後、再び主治医の先生の姿があった。思わず涙が込み上げてきて言葉にならなかった。「ありがとうございます。」と、かすかな声を発するのが精一杯で、さすがの先生も、困ったご様子で返す言葉がなかった。気持ちは通じたと思う。

比較しては申し訳ないが、退院前日にリハの先生と主治医の先生が、取り分け重要な連絡もないのに2回も来てくれるなんて、他の患者さんには、あり得ない事なのだ!だから尚更嬉しかった。

3月30日(土曜日)

いよいよ退院の日が来た。昨日の嵐の様な風雨から一転、晴れの天気。朝6時過ぎから私服に着替えて、朝食を待つ。8時半過ぎ、何故か?よりによって若い美人看護師(鼻から下はマスクをしているので自分の独断と偏見で)3人がお別れの挨拶に来てくれた。1人は「天性の会話能力」を備えた清純派。もう1人は目が大きくて、職務に忠実、真面目な人。この人退院する患者には必ず挨拶しに来る律儀さが印象的。3人目は、おそらく彼女が1番綺麗なのだとは思うが、やや事務的雰囲気。多分そうでもしないと、怪我入院の若い男性が、際どいことでも言って来そう。誰を選ぶかと言われても迷うくらいだ(笑)。目のクリンとした看護師が「寂しくなりますね!」。そう言われても、言葉に詰まる。特に波長があったTAさんは、ハイタッチでサヨナラ。Y看護師が右手のバンドをハサミで切ってくれ、放たれた感じ。確かに、多少辛さも感じた(そう言ったら、もっと大変な患者さんには申し訳ないのだが)40日弱の入院生活も、主治医、理学療法士、看護師さん達のお陰で随分軽減された。彼らの献身と忍耐力には頭が下がる。感謝しても仕切れない。退院したからと言って、不自由な生活は待っている。退院はゴールではなくスタートだ。

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