相棒の栞  モバイル版

山形県山形市霞城町
撮影日時 : 2025−4−18
4月の栞 『霞城公園(山形城跡)の桜【その1日没前】』
失礼ながら、馬見ヶ崎の桜並木は本命の霞城公園の桜見物の前座として、車で15分もかからない場所なので予定に組み込んだのだが、天気が不安定な事もあり、撮影に手間取り時間をロスしてしまった。結論を先に言ってしまうと、霞城公園を撮影する時間が短く一周まわる事ができず、不完全。到着が15時過ぎ。入り口は北門のみなので帰る車も多いが駐車場に入ろうとする車で多少の渋滞。そもそも、一部を残して城跡がほとんどない山形城のソメイヨシノがこれほどまでに見ごたえのある場所だとは思ってもいなかった。

簡単に山形城を紹介いたします。

築城は1357年というから南北朝時代。清和源氏の流れを斯波兼頼(しばかねより)が北朝勢の将として山形入り。やがて子孫は室町幕府より「最上屋形」の称号を得、最上氏を名乗ります。兼頼から約170年後の1546年、最上家11代当主、最上義光(もがみよしあき)が誕生。「北の関ヶ原」の戦いで直江兼続の軍勢に勝利し、義光は徳川家康から57万石(実質100万石ともいわれる)の領地を認められた。義光の死後に起きた最上騒動により最上家は改易となり、鳥居忠政の統治に代わる。忠政の山形城大規模改修によってほぼ現在の姿になったといわれています。その後、名君と言われた保科正之が7年間治世。その後は譜代大名が城主を担った。山形藩は、江戸末期には5万石程度の規模になり、城の維持管理も大変だったようです。明治3年(1870年)山形藩が転封になったときは城郭は大破、外壁、櫓も風雪に耐えかねる状態だったそうです。山形市が売りに出された山形城を購入したのち、陸軍の駐屯地となり場内の櫓、御殿は破却本丸は埋め立てられてしまった。三の丸の堀は埋め立てられ、農耕地として利用。日露戦争の勝利を記念して明治39年に帰還将兵が桜を植えたのが、今日の景観となっています。

山形城には本丸はじめ残された建物がほとんどないのに納得。逆に現存しないことで、歴史を感じます。埋め立てられた田畑や住宅の下には多くの遺跡が残っているとか?電車撮影に熱中していた自分が愚かだったかもしれません。

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