6月の栞 『菅谷館跡の蛍の里』
| 6月28日、圏央道の相模原愛川〜高尾山が開通し、秩父まで3時間はかかっていたのが、一時間近く短縮された。 関越自動車道へも海老名インタ-から、新潟方面の花火大会(柏崎、長岡、etc)が大変行きやすくなった。 (早く寒川の辺りを繋いでくれたら、家からすぐに高速に乗れるのだが・・・) 昨年、辛い目にあった山形県の赤川花火も、今年は東北道ではなく、関越にするほうがよさそうだ。(出費はかさみそうだが。) 早速走ってみたが、新開通区間は道路の継ぎ目で揺れることもなく、ほぼ直線で気持ちよかった。 ただ、ほとんどがトンネルで、カーナビにも道が登録されていないので、何処を走っているかは地図上に出てくる周囲の地名から判断するしかない。 先日ヒメボタルの地主さんに挨拶の為、立ち寄らせて頂いた折、沢山のきゅうり、トマト、キャベツなどを戴き(腐るほど、とはこういうことを言うのだと改めて実感)、お礼に自分の拙い写真を届けるついでに、嵐山町の蛍探索を一箇所試みた。 そこが、菅谷館跡にある、『蛍の里』なのである。 ただ、歴史的にも興味を抱いたので、早めの(と言っても夕方だが)到着を目論んだ。 詳しいご紹介は、HP埼玉県立嵐山史跡の博物館をご覧戴くことにして、蛍の里は菅谷館跡の南に位置し、はじめからここを目指すと大変解りにくい。 大妻嵐山高校に隣接しているので、すぐに判ったのですが、博物館正門まではたどりつけても、蛍の里への入り口がわからず30分も、ぐるぐる回ってしまいました。 嵐山町のHPには、蛍の説明が大変詳しく述べられていて、ここなら信用できるのではと思ったので、チョイスしたのですが・・・。 結論から言うと、蛍の里と書かれた小道入って行くと、いかにも観賞用に案内ロープが張ってあり(ロープから先には立ち入らないようにと言う意味)、小川も流れ、草丈も短い見通しの利く一角がありましたが、蛍は、至近に1頭、10メートル前後離れて2〜3頭しか見られませんでした。 少し時期が早いのかどうか判りませんが、少なくともカメラマンが一人も来ていないのには、チョッと?マークがつきます。 7時半から8時まで、何回か露光したものの、写っててくれたのは1頭のみ。 これが現実と、現地調査の厳しさの記念にアップいたします。 初めて訪れる場所ではよくあることで、あて勘でこの辺に出るだろうとカメラを設置しておいても、全く見当はずれだったりするのです。 折角のブルートーンは、そこに蛍が写っていない単なる風景写真となり、そんなものは全く役に立たないので使える訳がありません。 落胆の気持ちが強かったし、探索報告だけなら、1頭の証拠写真でも充分ですが、そこは根性を入れて、何とか作品にまで引き上げなくてはね。 夕暮れ時から、館跡を散策していましたが、誰一人として会う人はいませんでしたので、カメラを盗まれる心配もないだろうと思い、放置したまま付近を歩き回ることに。 いました!。 いえ、人ではなく蛍が・・・。 せせらぎの流れる橋の手前の階段を上がり、木々が生い茂った所で10頭以上確認、どうしてこんなところにいるんだろうと思いながら、急いでカメラを移動。 ただ既に真っ暗闇ゆえ、周りの地形がどうなっているのか全く判らなかったので、蛍が多めに飛び交っている所にレンズを向けただけの、バックもはっきりしない写真になってしまいました。 更に20時を半分近く回っていましたし、21時を過ぎると殆ど飛ばなくなってしまいましたから、多くの枚数は撮影出来ませんでしたが、夕暮れ時の館跡のスナップ写真を付け加えて、なんとか御紹介に漕ぎ着ける事が出来ました。 ところで、菅谷館跡は、畠山重忠(1164〜1205)公が居住した城郭と言われていますが、その父畠山重能(しげよし)は、初め「秩父」の姓を名乗っていたそうです。 武蔵国秩父の豪族で、畠山庄の荘官(荘司)となり、畠山氏と改称したそうです。 そのまま秩父と名乗っていてくれれば解りやすいのに・・・。 重忠は当初、平氏に従っていたが、後に源頼朝の有力御家人に成った人物で、1205年北条時政・義時に滅ぼされた。 ところで、教科書に出てくる畠山氏は、応仁の乱(1467〜)の一因となった8代将軍足利義満の後嗣を巡る争いに、斯波氏と畠山氏の家督争いが絡んで登場するのだが、時代があまりにも離れすぎていて、流れが読めなかった。 電子辞書で調べたことを鵜呑みにするなら、重忠の死後、妻が足利氏に嫁し、その子孫が再興したとある。 3代将軍義満の時、河内、越中、能登、紀伊の守護となり、三管領の一つとなりました。 もの凄い繁栄ぶりですね。 応仁の乱では、細川勝元率いる東軍に畠山政長、山名持豊(宗全)の西軍に畠山義就が属して、一族二分の戦いを演じ、応仁の乱後衰え織田信長の時滅亡とある。 私が歩いた館跡は、草木で覆われて、ちびっ子大広場にでも成りそうな広々した所。 しかしその土の下には、遺構もあるし、縄文時代からの多くの遺跡が残されていると言う。 堀は全て空堀で、水はありません。しかし、写真では上手く表現できませんでしたが、緑に覆われた、堀と土塁の美しい曲線から、当時の様子を想像していただけたら幸いです。 撮影日:2014−6−29 埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷にて |
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