立願淵の帰りがけ、左手の冨士山を気にしながら一号線を走っていたのだが、まだ冨士山がある程度は見えていたので、田子の浦港近くの公園に立寄ってみた。
工場夜景と冨士山が
コラボできるポイントとして知られているが、そのほかに何があっ
るかは全く知らなかった。
最もこの公園が出来たのは2015年、
田子の浦港の浚渫で出た残土で造ったとか言う、新しい公園。
広さ
は十分広いが遊具が少々、周遊のサイクリングコースのようなものもあった。
公園の中央には、黒い船もどきの帆船がドカンと地面に座
っている。
もう少し置き方を考えればいいのに(周りを池にすると か?)味気ない感じ。
しかしこのディアナ号一般公開してからまだ2週間しか経っていないと係りの方から聞いた。
この「ディアナ号」摸造船は、乗る?ことが出来、甲板に上がれるのだが、上がる時に幅が非常に狭い階段に注意しないと怪我をしそうだ。
つまり、大人の足の長さの半分くらいしかステップの幅がない!冗談で、カニ歩きで上がった方が安全なほどだ。
「子供用ですから」と案内人は言っていたが階段に大人用、子供用という言葉を使うとすれば、通する階段を分けての話だろう!階段の作りそのものにそんな区別はあるまい。
そのうち皆が異口同音にそう言うであろうから、造り直す日も近いかもしれない。
船倉部分は展示スペースになっていて、パネルを読んで行くと、ディアナ号が座礁した時、
田子の漁民が500名のロシア人船員を助けた(一人死亡、
二名負傷。生存者は400人とする説もあり、はっきりしない)
ビューティフル・ストーリーだった。
詳しい事は省略させて頂くとして、幕末に開国を要求してアメリカ
からペリーやハリスが、ロシアからはラックスマン、
レザノフらが来たと学校の教科書にはあるが、1853年極東艦隊司令長
官プチャーチン(プーチンに似ている)が長崎に来航した事は書いてない。
その後、ディアナ号艦長となったプチャーチンは、 1854年下田に来航。
その年の11月4日に起きた遠州灘沖を震
源とする安政東海地震で津波被害を受け航行不能、修理地として下
田・稲取・網代が上げられたが、最終的に戸田に決まった。
翌年下田で応急修理を終えて、本格的修理の為石廊崎を回り、
駿河湾から戸田の湊へ向かったものの、強い南風で船は流され、
駿河国冨士郡・宮嶋村(現冨士市)三四軒屋浜の沖で座礁。
その時、地元の村民が総出で救助に当たった。
「事実、 私たちは見た。
だが、この目が信じられぬほどの出来事だった。
早朝から1000人もの日本の男女が押し寄せてきたのである。
( 中略)。
日本人は綱に体を結び付けて身構えていた。
そしてカッター(大型のボート)が岸へ着くや否やそれを捉え、
潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、
しっかりと支えてくれたのだ!善良な、まことに善良な、
博愛の心に満ちた民衆よ!」とこの船に同乗していた司祭ワシーリ
ィ・マホフ氏の航海誌には書いてあるそうだ。
結局ディアナ号は損
傷が激しく、修復不可能。代わりに、総トン数がディアナ号の半分
に当たる100トンの船を造り「戸田号」と命名され、ロシア側に引
き渡されたそうだ。
当時200トンもの船を造る設備も、西洋式帆船
を造る技術もなかった。
設計はロシア人、建造は全国から集められ
た船大工が担当したと言う。
この「戸田号」、
後々ロシアから52門の大砲を備え付け、戻って来たそうだ。
昔、 ロシアと仲良かったんだァー。
何気なく立寄った「みなと公園」で、思わぬ「お勉強」をしてしまいま
した。
夜景写真は残念ながら、冨士山が写っていませんが、それで
もそれなりに綺麗な夜景でした。
いつか、冨士山とコラボした田子 の浦港を撮りたいと思います。
撮影日:2017−4−14及び4−23 静岡県富士市前田 田子の浦みなと公園にて |