一通の手紙から

「近ちゃん」の端末に、「プロコン関係者殿へ」 ・・・と言う、一通のメールが届いた。

近ちゃんがプロコンを離れて、早くも13年たち、現在の仕事が世界トップクラス[SUN]のワークスションの販売管理やノートパソコンに関わりを持っていると、30年前のコンピューターがいかに高額な商品だったか、製造メーカーの設計部隊、製造部隊、営業部隊、ソフトウェア部隊、保守部隊、ユーザによる保守部隊と、それぞれの苦労も並大抵でなかった。そこで、「近ちゃん」の19年間のプロコン生活をホームページにしました。

     
  • メール本文

    「近ちゃん」と「プロコン」の出会い

     昭和42年10月、東芝が社運を賭けた「工業用制御計算機・・TOSBAC−7000」に、参加し、翌年3月に出荷するマシンの内部配線の導通試験や一枚一枚のプリント基板の動作確認やプリント基板200枚前後で1モジュールを構成する部分試験やプリント基板1000枚以上で構成するハードウェアを手作り作品として、その間に英文の説明書とにらめっこで技術習得する毎日だった。その時の手作り作品は、{メモリー=8キロワード(24キロバイト)、磁気ドラムの容量が65キロワード(約200キロバイト)で、ハードウェア価格が3000万円、ソフトウェア価格も3000万円だった。

  • 手作りコンピュータ(TOSBAC-7000/40)     
  • 手作りコンピュータ(TOSBAC-7000/25)

    当時のコンピュータ保守員は、半年間かけて手作りしたマシンが客先に納品されると、作り手責任者として、当然のごとく現地駐在を強いられる。24時間の待機生活と、ユーザ先の保守担当者の育成も責務であった。

    初任給2万6千円の近ちゃんが送り込まれた所は、現在の姫路市にある新日鐵広畑製鉄所「第2製鋼・1号転炉工場」でした。

  • 広大な敷地は4キロメートル四方・自転車で一周1時間かかった

    出張旅費が追加されると、23才の若者が5万円を手にすると、結構遊びが出来た。その頃のこずかい帳を見てみると、本命の恋人との月いちデート(姫路から新宿往復)、遠距離交際の空しさを癒す「トルコ、ストリップ劇場」通い、プロは金が掛かるので現地調達の彼女とのデート、姫路を拠点とした日帰り「小さな旅」、アフターファイブのボーリング、一泊3食500円の民宿生活費、貯金残高10万円で一年7ヶ月ぶりの帰京であった。

    青梅工場に戻った近ちゃんの仕事は、本部要員として、7000/モデル40の技術支援部隊だった。北は八戸火力、新潟火力から西は新日鐵名古屋までが守備範囲だった。プロコンの定期点検は年一回7日間かけて作業するので、当然現地に定宿をつくっていた。

    当時、東芝、日立、三菱の3重電メーカーはプロコンに特化しており、中でも東芝がナンバーワンを維持していた。東芝と(E)の業務分担もすすみ、新人教育が急務になった。

    そんな折り、几帳面な!不良の?「近ちゃん」が教官になった。・・・この人事は果たして適材適所だったのか??

    プロコンも在籍していた19年間で機種が増え、TOSBAC−7000/40,/50,/60,/20,/25,TOSBAC−3000,TOSBAC−3300,TOSBAC−40/A,/B,/C,/D,/L,/N,TOSBAC−10,TOSBAC−シリーズ7/70,/70B,/70E,/60E,/40,/40E,/10・・・と教壇に立ち、社内にプロコン要員を養成すること300人、エンドユーザの保守要員を養成すること1000人以上、当時「近ちゃん」も若かった、のみこみの悪い人にも手を緩める事を知らなかった。まさに「近藤道場」の鬼師範だった。

  • 最強のプロコン(TOSBAC-7000/25)     
  • ヒット作品(TOSBAC-シリーズ7/40)     

        

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    プロコンの定義

     

    プロセス制御(火力発電所や原子力発電所ではアナログ計器を見ながら、蒸気流量のコントロールをしたり、製鉄所に於いては真っ赤な液体1600度の温度測定や1ミリの薄い鉄板を作るには人による作業は品質にばらつきがでるため、高度成長期の電力会社、鉄鋼会社、石油会社、造船会社などがこぞって、情報のデジタル化をした)このプロセスからの信号を、電子計算機に直結し、プロセス運転の監視と記録をとることを目的に採用された電子計算機をプロセス・コンピュータ、略して、「プロコン」と称した。

      
  • ハードウェアから言うと   
  • ソフトウェアから言うと   
  • マイクロコンピュータから言うと

     

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    プロコンの歴史

    東芝は昭和34年にプロセスコンピュータを世に送り出した。当時は製鉄機械の制御を司る付属品であった。火力発電所においても、計器類の状態監視程度の役割だった。この思想は、こののち、永久に続く事になり、昭和40年代になってもコンピュータはプラントシステムのおまけ、ましてや、コンピュータ保守員の常駐はおまけのおまけであった。

     
  • メインフレームの系図  
  • TOSBAC−7000  
  • TOSBAC−40
  • TOSBAC−シリーズ7

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    プロコンの世界

    プロコンの守備範囲は、現場の計器からの読み込みデータに始まり、コンピュータ内部処理の動き、現場へのランプや計器でのフィードバックが理解出来、日報、月報、年報についても理解していないと務まらない。

  • 火力発電所
  • 製鉄所     
  • 原子力発電所
  • 制御盤

    プロコンの教育方針

    近ちゃんが新人の頃は、アメリカGE社で教育を受けた技術担当から、知識の受け売りを受けた。午前中手作り作業、午後勉強会、英文テキストで居眠りし放題。配線チェックも終わり、続いて基板の動作確認、毎日、毎日ハンダゴテを握り締め、トランジスタの取り替え作業、機能確認のチェックの為には、自分で命令語を組み合わせてプログラミング作業、モニターや、タイプライターも故障が多く、知らず知らずのうちに、保守員はオールマイティーでなければならぬの像が出来上がった。

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    プロコンの鬼教官時代

    プロコンの保守員は2段階方式である。
    (1)メーカーの保守員−−客先のコンピュータ保守員がギブアップの時、駆けつけ完璧に解決させる事。

    (2)客先のコンピュータ保守員は−−プラントの現場から、異常時呼び出され、仮処置をしてでもまず、オンラインに復旧させる。

    当然のごとく、ユーザ教育も内容の濃いものであって、更に、新人教育や、旧人教育も、より深い技能を持つよう指導していた。

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    プロコンのOB会

    面影の残っている人、全く変わった人、東芝のメンバーも参加した

  • 全員そろってハイ・チーズ
  • 赤い顔して熱弁     
  • 皆集まれ     
  • 古手の顔ばかり     
  • 玄関先で記念写真     
  • ホームページ広げる会の結束