もしも”勇”と呼ばれていたら。

もしも、私の名前が、母親の思惑通りに”勇”であったなら、
ハンドル名(渾名)を『近ちゃん』で無く、迷わず、『新撰組局長』と
名乗っているだろう。

幼い頃、母親から私の名前の由来を聞いた。
母は、長男と、三女を乳呑児の時に亡くしている。

昭和19年は、田舎でも戦争の影響下にあり、食糧難であった。
母38歳の出産であり、大事な跡取り息子、”勇ましく育ってほしい”と、
願っていたようだ。

それ故に、私の名前に”勇”と、名付けたかったようだ。
だが、現実は、父の兄弟の中で出世頭に『定次郎』なる人物が居る。
その兄の一文字を貰って平凡な名前に成った。

もし、私の名前が『近藤 勇』であったなら、・・・・・
「名は体をあらわす」・・・とか、

16歳の春まで(安房の名門高校の剣道部員になった)気の弱い
男の子を返上して、違った少年時代を過ごして来たかもしれない。

おりしも、平成16年のNHK日曜日の大河ドラマは「新選組」が
取り上げられた。

「新選組局長」と言えば、『近藤 勇』である。

以前、ホームページの取材で町田市小野地区や、高幡不動尊に行った時、
近藤勇や土方歳三に縁(えにし)のある看板に出会った。
更に、通勤経路の近くに『近藤 勇』の生家があるのだ。

一度、タイムトンネルを通って、『近藤 勇』に会いに行ってこよう。

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タイムトンネル入り口

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生家跡

 三鷹と府中を結ぶ人見街道と小金井に通じる道の交わる辻に、
近藤勇の生家、武州多摩郡上石原村の豪農であった宮川家の旧家跡がある。
その敷地は、7反歩(7,000平方メートル)といわれ、欅、桜などの大木が
10数本と竹林がうっそうと茂る、威風堂々とした屋敷であった。
昭和18年に軍部による調布飛行場建設の際、滑走路の延長線上に
有るという理由で立ち退きを要請され、取り壊されてしまった。
現在は、近藤勇を祀った小さな祠、産湯の井戸が残るのみである。
この井戸は、屋敷の南東隅に位置し、取り壊されるまで宮川家では
生活用水として使用していた。

 

近藤道場撥雲館

豪農であり、篤農家であった近藤勇の実父、宮川久次郎は、
この広い屋敷に寺子屋や天然理心流武術の道場を持ち、
勇ら子息の他、近在の子らを集めて学問と武術を指導していた。
末弟であった勇が近藤周助に見込まれ、16才で天然理心流宗家に養子に
入った後、この宮川家は調布・三鷹地区の出稽古先として、大いに賑わった。
また、勇が上洛し、新選組局長となると、多摩地区では立身出世を
夢見る若者たちがこぞって剣術を習うようになる。
門人の数は、一時3,000名を数えたと言われている。

「撥」とは、取り除く、という意味をもっている。
撥雲館は、新選組ゆかりの人々によって暗雲を取り除いてもらいたいという、
当時の旧幕臣の本音をよく表している。

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菩提寺は龍源寺

  曹洞宗大沢山龍源寺。新選組局長近藤勇の生家宮川家の菩提寺である。
西武多摩川線の多摩墓地前駅から人見街道を三鷹市役所方面に
約1kmに向かうと左側に位置している。
都立野川公園の南側で、竜源寺バス停がある。
山門の左手に近藤勇の胸像と天然理心流の碑がある。
この碑は昭和63年3月に三鷹市剣道連盟が建立したもので、
碑文には「この地に生まれた近藤勇は、鹿島神道流を修行した
近藤内蔵助長祐が創始した天然理心流の四代目を継いだ剣豪です。
その神髄は誠の剣であり、力の剣であるとも言われています。
古武道は日本人の心のふるさとであり貴重な歴史的文化遺産であります。
天然理心流の木刀5本の形と柄砕3組の演武のフィルムが
日本武道館の古武道協会に永久保存されています。
三鷹市剣道連盟では、近藤勇先生慰霊剣道大会を毎年開催しています。」
とある。


墓所は、本堂裏手に、ひっそりと佇んでいる。
墓地に入るとすぐ右手に近藤勇、勇の娘婿勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)、
勇五郎の子久太郎、新吉の墓がある。
また、勇が辞世の句として残した七言絶句二首が刻まれた辞世の詩碑が建っている。

9月7日はどんよりとした天候でした。
写真の写り具合が今ひとつ納得できませんが取り敢えず、大画面で
ご覧いただきたいと思います。

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・・・おしまい・・・