第二十話 池田屋事変・・勤皇の志士7名を殺害する。


元治元年六月五日、京都は祇園祭宵宵山の日(本番の二日前)である。

京都には「浮浪の徒」(勤皇の志士)が多く、潜伏しているので、京都守護職は
新撰組に探索を命じていた。

早朝、新撰組隊士が会津藩を訪ね、「浮浪」潜伏場所が20箇所余りあり、
新撰組だけでは捕り逃がす事もあるので、守護職からも人数を出して欲しいと、
申し込んだ。

京都木屋町に、「桝屋喜右衛門」なる商人がいるのだが、養子であるのに
商売に精を出さずに方々に出かけ、帯刀することもあったので、
親類のものから、「木屋町筋警護担当の新撰組」に、説教するよう依頼があった。

六月五日早朝、京都木屋町の「桝屋喜右衛門」を逮捕した新撰組は、拷問の上、
この男が「近江出身の尊攘志士の古高俊太郎」であること、長州をはじめとして
40人ほどの同志が京都に潜入しているとの自白を得た。
古高の屋敷の土蔵からは火薬類も発見された。

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一方、古高逮捕を知った浪士たちは、長州藩邸に集まって議論した。
古高の屋敷に攻め寄せて武器を奪い、さらに壬生の新撰組屯所を攻めて、
古高を奪還しようと決めた。
そして、長州藩から人数を出すよう要請した。

しかし、当時の長州藩士は国許に返されており、「留守居役の乃美織江」以下
30名ほどしか居なかった。
そして、軽挙妄動は慎むようにと諭された。

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新撰組からの申し出に対し、会津藩は、
1.事態を見逃せば、守護職の職務をまっとうできず、
2.浪士を捕縛すれば、会津藩に対する恨みが一層深まる。

一橋慶喜、京都所司代、町奉行などと打合せをし、新撰組には、夜五ツ(21時頃)
に祇園会所に集合することを約束した。

幕府(会津・彦根・松山・浜松・桑名・淀・奉行所)からの
「御用改め」部隊が出動したのは夜四ツ(22時半頃)と遅れた。

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新撰組は、約束の集合時間より早く行動を起こしたようだ。

土方隊・・・・丹虎(四国屋十兵衛方)を襲撃するがもぬけの殻だった。
近藤隊10名・・・『池田屋』を御用改め。
壬生浪士・・・・祇園町茶屋「越坊」を御用改め。
会津・桑名兵・・・祇園「井筒」を御用改め。

さて、『池田屋』に何人の勤皇の志士が居たのか不明であるが、新撰組によって、
殺害された志士は4名である。

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翌日の六月六日、当日は祇園宵山ではあるが、幕府の御用改めは続いた。

二条通りから三条通りを捜索したが、一人も見つからず、
夜九ツ(0時頃)先斗町などを捜索して、捕縛・斬り捨てなどをあわせて
20名近くになったようだ。

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結局この事件での死者は、新撰組が3名、志士が7名である。

新撰組 ・・奥沢栄助    ・・・・即死
          安藤早太郎   ・・・重傷・・7月25日死亡
          新田革左衛門・・重傷・・7月25日死亡

殉難七士・・宮部鼎蔵 ・・・肥後藩・・・享年45歳
            北添佶摩 ・・・土佐藩・・・享年30歳
             大高又次郎・・播州藩・・・享年44歳
            石川潤次郎・・土佐藩・・・享年29歳
            吉田稔麿 ・・・長州藩・・・享年24歳
            杉山松助 ・・・長州藩・・・享年27歳
            松田重助 ・・・肥後藩・・・享年35歳

御霊は、お寺の引越しが有り,「三縁寺」に有りました。・・・・ ここをクリック

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だいぶ 読み応えがありましたでしょうか。  続いて、写真を紹介します。

写真は、「古高俊太郎」と、「池田屋」に分けました。・・・・ ここをクリック。